東京都による大学破壊を歴史に刻む
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東京都立大学辞職の弁
荻野綱男
2004.7.6
 

私は、2005年3月末をもって東京都立大学を辞職する予定でおります。

1.はじめに

 東京都が、現在の4大学を統合・再編して「首都大学東京」を2005年4月から発足させるという話は、すでに多くの方がご存じだろうと思います。これについては、 http://tmu.pocus.jp/kiki.html が断然詳しいので、是非ご覧下さい。

 最近提出を求められた、新大学に対する「就任承諾書」については、私は、これを書きませんでした。このことは、私が新大学に就任しないという明確な意思表示です。自分で考えた結果、どうしても新大学を受け入れることができず(新大学がまともな大学であると思えず)、したがって、新大学に就任しないことがベストであると判断しました。


2.新大学の問題点

 新大学に関して、何が問題であり、どういう点に反対なのか。以下に箇条書きで記しますが、ひとことで言えば、基本的に東京都は大学教員を信用していないのです。そういうところに勤務すると考えるだけで嫌気がさします。

(1)大学側の意見を聞かずに、東京都大学管理本部が新大学のあり方を一方的に決めたこと

これは、大学を東京都が支配するということを意味しています。「公立」である以上、東京都が支配するのが当然だと考える人もいるかもしれません。(石原都知事は明らかにそう考えています。)しかし、大学というのは、本来、そういうものではありません。東京都が大学を支配することは、大学において研究・学問の自由がなくなるということであり、研究者が東京都を批判することができなくなるという意味で、自分の(また多くの教員・学生の)研究の方向性がゆがめられます。これは「大学改革」というよりも「大学破壊」というべきでしょう。私は、こういうことは、あってはならないことと思います。

 私は、設置者としての東京都は、大学の研究・教育がスムーズにいくようにサポートするべき存在なのだと思います。しかし、現在はそうではないのです。大学のことを知らない人たちが大学のことを決めています。これを言い換えれば、「大学教員は、大学のあり方について考えられない人間だから口を出すな」ということなのです。大学教員に対するこのような東京都の認識は間違っていると思います。

(2)自分が教える場がなくなること

 今の新大学構想では、私は、オープンユニバーシティ(エクステンションセンターから改称)所属となり、学部教育から外されます。つまり、「お前は学部教育にあたる必要はない」と宣言されたのです。新大学では私が教える学生がいないわけです。

 私は、大学教育の中心は、学生を育てることにあると考えます。そういう場が、私の場合、新大学にないのです。いや、厳密に言えば、大学院があり、そこには学生がいるので、学生を育てられないというのは言い過ぎかもしれません。しかし、大学院があればいい、学部教育は担当しなくていい、とは、私は考えません。学部教育はすべての基礎であり、そこから携わることで、自分が考えるような方向で学生を教育することができるのです。私が担当するセクションが学部にないということは、つまり、そういう分野は新大学で不要だということです。

 大学院にしても、新大学で一体どういう大学院ができるのか、私が本当にそこで教育にあたることができるのか、きわめて不安です。それは今までの東京都のやり方を見てみれば明らかです。1年間だけの暫定大学院ははっきりしてきたものの、その先は何ともいえません。

 ということで、新大学の構想では、満足のいく大学教育が(私の場合)できません。

(3)新大学の構想の中で、いくつか絶対に譲れない点が落ちてしまっていること

[1] 任期制・年俸制が導入されること

 今の教員は、「旧制度」を選択することも(制度的には)可能ですが、新規採用教員は、任期制・年俸制が適用されます。その内容を私が読む限り、これでは、いい教員は採用できません。現に、新大学で教員を公募しても、応募人数がごく少なくなっています。新大学で教員募集をした場合でも、応募者がゼロになることはないでしょう。定年が近いような人が新大学の公募に応募することもあるし、また、定職に就いていない人(その多くは若い人)がいますから、職がないよりは、任期付きでも職があるほうが望ましいと考え、応募するでしょう。その中でも優秀な人は、……、他大学に引き抜かれるでしょう。そういう引き抜きを押しとどめることはできません。だって、他大学のほうが身分の保障があり、高い給与を支払うとしたら、そちらに目が向くのは当然ではないでしょうか。

 任期制・年俸制を続けたら、若い人と老人だけのいびつな教員構成になり、一番脂がのって活力があるはずの40代の教員(分野によって活躍年代は前後すると思いますが、大局的には事情は同様でしょう)はいなくなります。今までの東京都立大学は他大学に勤務している人を引き抜いて持ってこられる力がありました。これからは、そうではなくなります。こうして、新大学は教員のレベルが下がっていきます。今すぐそうなるわけではありませんが、年数が経てば、その影響は避けられません。(これらはすべて私の判断ですから、間違っているかもしれません。)

 私には、今の段階で、(今までに示された構想で)新大学が積極的にこの制度を導入するメリットがあるとは考えられません。

[2] 単位バンク制が導入されること

 これについて、大きな目で見ると、単位バンクという制度を活用することで、そもそも新大学のカリキュラムや個々の授業の中味まで大学外の人たちが口を差し挟めるようになっています。東京都が大学教員を信用していないというのは、こういう制度設計に典型的に現れます。

 単位バンクは実に恐い制度であり、教員の行う授業の検閲制度といってもいいと思います。この制度設計を通して、東京都は大学の教員を単に授業をする人としか見ていないことが明らかになりました。いわば、新大学はほとんどの教員が非常勤講師であるような大学なのです。

 これら2点以外にも、たくさんの点で、新大学構想には不満ですが、個々の指摘は省略します。ここを追加することはたやすいのですが、多くはすでに指摘されていることなので、いわずもがなでしょう。

(4)教員に対して恫喝文書が出されたこと

大学管理本部長と新大学の学長予定者(西澤潤一氏)の連名で出された2004年 3月9日の文書には、本当に怒り心頭に発しました。

http://tmu.pocus.jp/yamaguchi-nishizawa030904.html

  • 「改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はありえない。」
  • 「公に改革に批判を繰り返す人たち、意思確認書の提出を妨害する人たちには、意思確認書が提出されたからといって、建設的な議論が出来る保障がない。
  • なんらかの担保がないかぎり、新大学には参加すべきでない。
  • 学内を主導する立場にある、総長、学部長(研究科長)、教授クラスの教員にあっては、混乱を招いた社会的、道義的責任を自覚すべきである。」

  これは、新大学構想に批判的な人は新大学に来るなと言っているわけです。また、私も「教授」の肩書きを持つ人間ですから、今回の混乱の責任者の一人ということになります。何と、私が責任者!! 返す言葉もありません。こうまで言われて「はいはい、その通りです」などと言えるはずがありません。

 この文書は、その後も撤回されていません。

 こういう文書を出す人の頭の中はどうなっているのでしょうか。

 少なくとも、私はこんな文書を出す人(この文書を本当にそうだと思っている人)の下で働きたいとは思いません。

 新大学の学長予定者は、一方では、公立大学協会の会長として、2003年10月2 日に次のような公立大学の法人化に際しての「見解」を表明しています。 http://www.kodaikyo.jp/h15/031002_houjinka_kenkai.pdf

「設置自治体が法人化を選択した場合には、教育研究の特性及びこの特性のもっとも重要な要素である自主性に常に配慮しつつ、大学側と十分に協議しながら双方の協働作業として進めていくという姿勢が何よりも大切です。」

 私には、この「見解」と上述の恫喝文書が同じ人の名前で出るということが信じられません。私が西澤氏だったら、恥ずかしくて、どちらか一方の名前を消すように求めるでしょう。


3.私は今まで1年間何をしてきたか

 私は、2003年8月1日に東京都の「大学改革」構想が公表されてから、それには一貫して反対してきました。都議会に対する請願・陳情運動にも加わりました。都議会議員との交渉にも出かけて、直接話し合う機会も持ちました。その結果、私が考える望ましい大学像(そこから帰結する新大学構想の欠陥)は、一部の議員には理解してもらえたものの、多くの(与党会派の)議員に受け入れられず、それはつまり東京都民にも受け入れられないということであることがわかりました。

 そうなれば、選ぶ道は一つしかありません。辞職の道です。

 自分が考える「大学らしい大学」ではない新大学に就任することは自分の信念にウソをつくことだと思います。


4.新大学に就任する東京都立大学の教員の方々に

 皆さんも、喜び勇んで新大学に就任するのではないと思います。これからいっそう大変だと思いつつ、現学生のことを考え、苦渋の決断をなさったことと思います。それはそれで重く貴重な判断です。

 皆さんは、新大学をよりよいものにするように努力をなさるものと思います。是非、その方向で力を合わせてがんばっていただきたいと思います。

 一つには、評価の仕方も含めて任期制・年俸制の運用を変えることでしょう。たとえば、公平な評価に基づいて、優れた教員に平均の数倍程度の年俸が提示できるようになれば、任期制の下でも応募してくる優秀な教員が増え、教員のレベルが下がるどころか、上がることさえあると思います。

 また、単位バンクにしても、学生のめんどうを見るのが教員だという基本線に立てば、大学外の人が単位を認定する制度ではなく、むしろ教員が世界中に出かけていき、いろいろな組織の個々の活動を単位バンクに登録していいのかどうか積極的に判断するような制度改革も可能なはずです。

 ただし、新大学のあり方として、制度(の運用)を変えるということについても、教員が考えて変える権利を持つわけではなく、「長」がそう判断しないと変えられないようになっていると思います。その意味で、教員の努力にも限界があることを認めざるを得ないことは残念です。


5.東京都立大学に在籍する学生の皆さんに

  現在在籍する学生に対しては、辞職はある意味で責任放棄であると思いますが、こういう行動をすることに関しては、私に責任があるというよりも、「大学改革」(私からみれば大学破壊)を強引に進めた東京都に責任があるというべきでしょう。東京都が今回のような構想を進めなければ、当然、私は東京都立大学を辞めることなどなかったのです。

 教員個々人は自分の判断で大学を辞める権利を持っています。教員が辞めたあとをカバーして学生に対する教育責任を果たすべきなのは、大学側(さらには東京都側)です。したがって、辞職する教員に対して教育責任を追及することはできないと考えます。

 東京都立大学に入学された皆さんは、東京都立大学を卒業することになっています。大学管理本部は学生の学ぶ権利を保障すると言っています。私は、大学管理本部を基本的に信用していません(自分を信用してくれないのですから)ので、この言い方でどこまで具体的に保証されるのか、心配です。しかし、学生の権利は学生が勝ち取るものだと思います。

 今までの大学の動きを見ていて、少々はがゆかったのは、学生の動きでした。私が学生だったころ(30年以上前)は、大学紛争の余韻がキャンパスに残っていた時期でしたから、今とはだいぶ違うと思いますが、それにしても、大学に関する諸問題を学生間でもっと真剣に議論し、具体的に行動したように思います。今の東京都立大学では、それが弱いと感じます。少人数教育で学生数が少ないということもあるのかもしれませんが、もう少し、やりようがあるのではないかと思います。

 その意味で、卒業するまで、自分の(大学で十分な教育を受ける)権利を大事にしていただきたいと思います。入学が認められ、実際に入学した以上、入学当初に約束されたさまざまなことは、卒業まで有効なのですから。


6.大学改革のあり方

私が東京都立大学に着任したのは1995年でした。10年間在籍してみて、実にいい大学だと思いました。教員も学生も優秀な人が多く、居心地がよかったと言えます。そういう場所にいたからこそ、自分の研究も進んだし、自分で納得できる教育が可能であったと思います。

 しかし、東京都立大学は、今のままの状態がずっと続くのがベストかといえば、そうではないでしょう。時代が変わるのですから、大学も絶えず改革が必要です。

 私が思うに、そのような大学改革は、急激であってはいけません。なぜなら、在籍する学生がいるからです。大学に入ってきた学生は、当然のことながら、用意されたカリキュラムで学び、無事に卒業できることが期待されています。

 私は、今の東京都立大学の体制が変わらないことを願うものではありません。自分の所属する国文学専攻や人文学部がなくなることは、場合によっては、やむをえないこともあると思います。しかし、そのような大きな変革をするならば、関係者の合意を得ながら、じっくりと考え、入念に設計し、きちんと準備するべきです。

 昨年からの東京都の「大学改革」は異常です。新構想を発表してから1年半で新大学を発足させる。こんな急激な「改革」をしたら、多くの人に悪い影響が出ます。なぜ、時間をかけて移行するようなことができなかったのでしょうか。


7.終わりに

 私は定年までこの大学にいることを前提に考えてきました。しかし、それは計画倒れになってしまいました。志半ばでこの大学を去ることになるのは大変残念です。

 何より残念なのは、東京都側と大学教員(私を含むおそらく多数の教員)の間に相互信頼関係が成立しなくなったことです。このことが、まさに「大学破壊」なのです。

 私とは立場の違う人もいるでしょうから、私の意見を読んで、頭が固い、アナ クロだ、大学の改革の必要性がわかっていない、などと批判したくなる人もい るでしょう。そういう人は、ご意見をぜひ ogino-tsunao(AT)kubidai(DOT)com までお寄せください。私からのご返事をお約束するものではありませんが、この文書を改訂したりする際に参考にさせていただきます。

この記事へのコメント

投稿日時: 2004-7-16 22:03, 更新日時: 2004-7-19 22:51

荻野綱男先生へ

昔々の卒業生より

 2004年7月5日

 先週末に先生の「東京都立大学辞職の弁」を拝読しました。驚きつつも以前にほのめかしておいでのことでもあり,意外の感はそれほどでもありませんでした。

 就任承諾書を出したか出さなかったかについては,都立大の先生と言えどもご家族の生活や人生設計もありましょうから,個々人の問題として私なんぞの口出しできることではないでしょう。

 しかし,この度の件に関して「闘った」か「闘わなった」かは,一卒業生として先生方に対する見方を決める一つの要素となってしまうことは仕方がないことだと思います。

 他の専攻には,闘うことに消極的であった先生方も少なくないなか,荻野先生は,都立大学の国語国文学研究を守るために(先頭になって最も果敢に)闘った人だというのが私の理解です。

 以前より事あるごとに申していることもありますが,私はこの度の『改革』について次のように考えております。

1 石原知事の目的は都立大を「なくす」ことなのであって,後はどうでもよいのです。

2 西澤学長予定者の「改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はありえない。」の発言(文書内)は当初からの「都立大なくしの一派」の本音であると思います。

3 (特に)人文学部の先生方の「反論」は「学者の議論」からなかなか離れられず,効果的な「反撃」となったものは少ないと思います。

4 先生方にはまとまって,つまり,一体となった「学部」として抵抗していただきたかったと思います。

5 この度の都立大なくしは,「ホロコースト」に譬えると分かりやすいと思うのです。

 各々少々ご説明申します。

《1 石原知事の目的は都立大を「なくす」ことなのであって,後はどうでもよいのです。》

について>>>

1.1 聞くところによると,1975年の都知事選挙のことは石原都知事は今でも忘れていず,都立大に対する言わば『私怨』に等しい面もあるようです。『私怨』を『政策』にしてしまうのは独裁者によくあることです。

1.2  ほとんどの独裁者は選挙(またはその他の合法的方式)で就任しています。選挙で選ばれたことは,必ずしも民主的に事を進めることを意味するものではありません。「選挙で都民の多くに支持されて就任した都知事たる人がそんな変なことをするわけがない」という意見をも耳にしますが,似たようなことを第二次大戦前の英国首相チェンバレンも主張していて,後に悲劇を生んだことを我々はよく学ぶ必要があります。

1.3 そして,石原都知事の目的はほぼ達成されようとしています。たとえその構想どおりに首都大が出来なくとも,現状でも都立大がメチャメチャになってしまっているからです。

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《2 西澤学長予定者の「改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はありえない。」の発言(文書内)は当初からの「都立大なくしの一派」の本音であると思います。》

について>>>

2.1  昨年も申しましたように,既に「結論」は決まっていても,全く形式のみの話し合いの場を設けて「協議しました」としてそのまま既に決まっていた結論の方向に持って行ってしまう手は,役人の常套手段です。つまり,向こう側が「協議」を提案してきた場合でも,これに応じてしまったら,向こうの思う壺で,むしろ,こちら側としては完全白紙撤回でない限り応じない,くらいの姿勢でいたら,向こうは話を進めることができなかったと思います。

2.2  「改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はありえない。」は昨年8月1日前(選挙直後であろう)に石原都知事の意思となっていたわけで,これは昨年8月1日の「総長呼び付け」と「先生方との協議が全くなしのプレス発表」から,理解できたはずだと思います。西澤学長予定者はむしろ学者の良心から本心を包み隠さず述べたものと思います。発言が出たか出なかったかに係わらず,昨年8月1日の2つの事実やそれ以前からの状況(管理本部の人事など)から,大学管理本部側は先生方と話し合う気など全くないことを理解してこちら側の体制を整えるべきなのでした。つまり,たまたま「学長予定者」の発言として出たものではありますが,出たか出なかったかはほとんど問題ではありません。出ていなくとも相手はそう考えていると理解して行動(対抗)すべきであったのです。

2.3 こういうやり方には「要望」「要求」「声明」「意見の表明」「協議体制」「公開質問」などをキーワードにしていても,大学管理本部や都知事側の受け取り方として,『独り言』以上のものではなかったはずで,向こうがこちらの考えを少しでも入れるようにするために必要であったのは『結束』『拒否』をキーワードにした行動であるべきでした。

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《3 (特に)人文学部の先生方の「反論」は「学者の議論」からなかなか離れられず,効果的な「反撃」となったものはほとんどないと思います。》

について>>>

3.1 大学管理本部側の首都大に関する具体的構想の根拠の基となっているさまざまな「数字」は管理本部の構想を正当化するための「作為」が元より入ったものです。その数字は全くのデタラメでなく,それぞれ一部面的事実は示している(ここに巧妙さがある)ものです。

3.2  こういう数字の出し方は社会科学系で育った人間はよくやることです。この分野は「真理を探究する」とか「客観的事実をありのままに示す」ということはあまり重視しないわけで,しかも,こういう数字を出す立場の人は実務社会での経験が豊富で,自分たちの計画を実現させるための方策に長けています。彼らにとってこういう数字の出し方は「よくやる手」なのです。

3.3 そういうものに対してあくまでも人文科学的自然科学的に結論の基のデータ部分を議論の対象としても意味がないのです。

3.4  例えば,独文と仏文の先生方による,雑誌『財界』(2004年6月8日号)に対する抗議文(誤りの指摘=列挙)です。おそらく,執筆者側も独文と仏文の先生方がご指摘のことは分かっているはずです。それでいてさまざまな理由から,都庁側の『改革』を支援する内容にしてある,ということを,都立大の内情を知る者は分かったうえで読み,対抗手段を講ずべきです。

3.5 このような記事に対抗するのは,虚偽の記載に終始している記事により誤った輿論誘導をして自分たちの学問の自由が侵されたことに違法性を認めて,記事の撤回あるいは訂正および損害賠償の民事訴訟を起こすしかないのです。

「抗議文」だけでは相手の受け取り方はやはり『独り言』でしょう。

3.6  つまり,(事実を重んぜず)作為を基にして,[真理を重んぜず)自身の考えた結果を導くことが正当な方法だと考える人が世の中には少なくなく,このような人たちに対して抵抗するならば,まず,その行為自体を止めるべきで,向こうの論理の基を議論の対象にするのは意味のないことです。黒澤明監督『七人の侍』に「首が飛ぶっつーのに髭の心配してどーするだ」というせりふがありますが,本当にまずは首を落とされないようにしなければなりません。

3.7 こういうことは「数字」だけではありません。要するに「視点」の置き方がずれていたわけです。例えば,英文の先生方が,首都大で計画されている外部発注の英語教育に関して述べた意見についても似たようなことが申せましょう。

元々大学自体をなくそうとしているのであって,よい大学教育をしようなどとは考えていないわけですから,英語教育も「この計画では教育が悪くなる」と,その教育内容を批判するのは,やはり学者的議論です。「悪い教育だから修正する」などとは管理本部側は考えもしないことです。内容に対して現在の都立大の先生方が学部発注の英語教育に対し,専門的意見をいろいろ表明しても,それに基づいて管理本部側がその方針を変更する可能性は極めて低いと思われます。とりあえずあちらから返されるせりふがあるとすると「ああ,やっぱり。」でしょう。

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《4 先生方にはまとまって,つまり,一体となった「学部」として抵抗していただきたかったと思います。》

について>>>

4.1  石原都知事の提案した新規政策で有名なのが「銀行税」ですが,これと比べるとよく分かります。「都知事とその側近による秘密裡の協議=原案作成」〜「奇襲的プレス発表」は「銀行税」と全く同じやり方なのにその後の展開は正反対に近いほど異なるものでした。「銀行税」ではいくつもの銀行が各会社の枠を超えて連合して抵抗し,実質勝利を得たのに対し,「都立大」では人文学部一つでさえまとまらずに,瓦解してしまったわけです。

4.2 昨年8月(あるいは9月)の時点で先生方が一心にまとまらなかったことで,今日の結果はほぼ見えていたとも言えましょう。『七人の侍』なら「前編」の最後のせりふ「他人を守ってこそ自分も守れる。戦(いくさ)とはそういうものだ。」を理解していただけたらもう少しマシな結果になっていたと思います。この度狙い撃ちされた人文学部は,例えば学部長に「命を預ける」結束をして都立大学の学問を守る姿勢を示していれば,少しは事態の好転が見込めたはずです。また,かなりの卒業生の賛同と協力が期待できたと思います。

4.3 まとまらなかった原因が,専攻ごとの立場の大きな違いによるものであるのは誰にでも分かることでありましょう。人文学部の専攻には,首都大開学時に現状とほぼ同じ状況で入るところがありますが,これは,管理本部側の切り崩し工作で,まんまとその術中にはめられてしまったと言えましょう。現在の都立大での専攻がほぼそのままの状態で首都大にも設置される,と言われると,下手に逆らって自分の立場を危うくすることはできない,という心理を上手く突かれたものです。これらの専攻がその後も続く保障はありません。いずれはそれらの専攻も今回の文学科5専攻と同じ運命になるかもしれないことを理解してほしかったと思います。繰り返しますが,それらの専攻の先生に申し上げておきます。

「他人を守ってこそ自分も守れる。」

4.4 管理本部からすれば,都立大学の学問は,都知事や大学管理本部が力ずくでなくしたというより,大学管理本部が軽く押したら,都立大側で自壊してくれた,というところでしょう。

4.5  石原都知事にしても,「横田基地」,「銀行税」と1期目の政策がなかなか上手く行かなかったなか2期目に入り,いよいよ次は「都立大」だとかなり気合いを入れて,激しい抵抗を覚悟していたところに,やってみたらあまりにも脆かったので,拍子抜けではないでしょうか。

4.6 とにかく,「学部」としての主張と,「同じ考えを持つ数人」の主張とでは,重みが全然ことなるので,「学部」が一体とならなかったことは,今日見ている結果のすべての原因とも言えましょう。

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《5 この度の都立大なくしは,「ホロコースト」に譬えると分かりやすいと思うのです。》

について>>>

5.1  首都大開学の段階は「ゲットーへの囲い込み」というところだと思います。次は「ゲットー解体→強制収容所への連行」(完成年度前に改組や再編=基礎系のさらなる弱体化があるかも),その次(最後)には「絶滅収容所での処理」(まともに学問を修めた卒業生がいなくなり,学生の就職が悪くなる〜応募者減〜大学の規模を縮小〜都立高専や職業訓練校と統合……)と進む恐れもあります。

5.2 そうなることは想像したくありませんし,現実に起こることのないよう,我々卒業生も何とかすべきなのでしょうが,現在の都立大の先生方が相手側のやり方を理解せず,またバラバラになっている状況では何も出来ません。

5.3 首都大での教育研究体制について大学管理本部側がいろいろいいことも言ってきていますが,それらはいずれも分かりやすくドイツ語の表現(アウシュビッツの入り口にある『標語』,これが欺瞞であることはよく知られている)に翻訳することができます。

ARBEIT MACHT FREI

5.4 七尾養護学校事件も現在の東京都の姿勢として源を同じにしていることだと思います。

***おわりに***

 ある名誉教授の先生が「無抵抗に怒り」「戦うべき」と書き記しておいでですが,同じ思い(都知事や大学管理本部よりも「無抵抗」の先生方に対する「怒り」が強い)の退職者や卒業生(私も含めて)は多いようです。荻野先生はこの度「闘い」を立派になされたわけで,生き残ってさらにご研究を続けて,私たちにもお教えを賜りたいと存じます。

 ありがとうございました。


投稿日時: 2004-7-8 8:46, 更新日時: 2004-7-8 8:46

投稿者:ogino

40代が活躍層?

 ある方から、メールをいただき、「一番脂がのって活力があるはずの40代の教員」という断定的言い方にひっかかるというご意見をいただきました。

 私としては、おおざっぱな話をしたつもりですが、まったく根拠なしに断定したわけでもありません。

 私が過去に行ったことですが、日本語学分野の論文8万本のデータベースをもとに、論文執筆年齢を計算し、論文生産は40歳代の半ばがピークになること、46歳が最頻値であること、論文執筆年齢の平均は 48.41 歳になることを述べたことがあります。詳しいデータは、荻野綱男(1993.6)「日本語研究者はいつ論文を書くか──『日本語研究文献目録・雑誌編』に見られる年齢構造──」国語学173集, pp.左15-28 をご覧下さい。  なお、日本語学分野の中でも、専門分野をさらに細かく分けると、若い分野と高齢者ががんばっている分野があることをこの論文の中で論じています。日本語学以外の分野ではさらに違ってくることがあると思います。

 そういう分野間の違いには片目をつぶって断定的に言ってしまいました。

都立大の風景
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